平成20年9月2日
    五  小  の  風  景  No.5

                                                        五日市小学校長  国政 直文
 
 
 
公私の区別を
 
 長い夏休みも終わり,今日より再び,学校生活が始まりました。子どもたちは,いろいろな思い出を胸に登校してきたことでしょう。休み中に大きな事故もなく,すべての子どもたちが無事夏休みを過ごすことができたことを本当にうれしく思います。ただし,休み前まで習慣化していたことが長い休みの間にくずれてしまった子どももいると思います。気持ちを引き締めて,今日からまた前向きに学校生活に取り組んでほしいものです。         
 さて,最近読んだ雑誌に,「言葉の公と私の区別」(聖徳大学児童学部教授 西村 佐二先生)という記事が掲載されていました。「言葉の教育」について考えさせられるものでした。この記事の概要は,公私の区別がしっかりとつけられる,つまりその場,その時に応じた振舞い方ができる子どもたちを育成してほしいというのもでした。記事の中で,公私における話し方や聞き方といった言葉遣いの違いはどんなところからくるのかということについて,作詞家で作家だった故阿久悠氏の随想「普段着のファミリー」を引用して説明されていました。それは次のような一節でした。「思い出してほしい。かつては,家と社会という意識が歴然とあって,家から一歩出るとそこはもう社会であると思っていた。家の中では相当ダレた姿をしていても,煙草を買いに出かけるだけで,社会用にジャケットを1枚羽織ったものである。(中略)たかが,余所行きと普段着,着る物の選択で何ほどのことがあろうと思われるかもしれないが,メリハリのつかない生活感が,メリハリのつかない社会観や人生観に繋がるのである。」
 私もそうだと思います。公私の区別のついている社会観,人生観が,TPOにあった行動ができるかどうかに影響してくるものだと。
 また,発達心理学者の岡本夏木先生の「言語環境としての家庭」という論文の一節を紹介されて,「公的な言葉」=「二次的ことば」の育成の必要性について述べられていました。岡本先生の説によると,親しい人との言葉のやりとりで,しかも「場面の文脈」によって支えられ展開していく幼児のコミュニケーションを「一次的ことば」,不特定多数を聞き手として,誰が聞いても分かるような「言葉の文脈」に即して話さなければならないコミュニケーションを「二次的ことば」とし,「一次的ことば」は家庭で,「二次的ことば」は学校で主として育成されなければならないということです。ということであれば,「公的な言葉」の育成により,子どもたちは,公私の区別をしっかりと意識することができるよになると考えられます。
 そう考えた時,果たして「公的な言葉」の育成が,十分になされているかどうかについて,今一度省みる必要があるように思います。
 教師に対して友だちに話すような話し方をしている子どもはいないか,単語を並べるだけで物事を済まそうとしている子どもはいないか,場にそぐわない大声を出している子どもはいないか・・・。つまり, 私的な生活そのままを公的な学校に持ち込んでいるのではないかと思われるような言動をしている子どもたちはいないかということを。
 「コミュニケーション能力の育成」ということが盛んに言われています。そのためにも,状況に応じたコミュニケーションがとれる子どもたちを育成する必要があります。「言葉の公と私の区別」という記事を読んで,日々子どもたちと接する私たちが言語感覚を鋭くし,言葉遣いや言葉の指導を行っていくことが大切であるということを再認識させられたように思います。